小石原焼き

小石原焼きとは、福岡県朝倉郡東峰村でつくられる伝統の焼き物のことです。器を「ろくろ」で回転させながら均一に模様を入れていくのが特徴的です。かつては壺など大型の陶器の需要が大きかったため、大きな登り窯が活用されていました。

素朴で落ち着きのあるデザインの焼き物は、生活に良く馴染み使いやすいです。今回はそんな焼き物、小石原焼きについてご紹介します。

由来・歴史

小石原焼きの歴史は実に350年以上もの歴史があります。小石原の土地は陶器づくりに最適な土と窯の火を焚くための木材が豊富に手に入る、焼きものづくりにはまさにぴったりの土地でした。小石原焼きがはじまったきっかけは、1665年に八之丞という人物が小石原で上質な陶土が採れることを発見し、中野皿山で陶器づくりをはじめたことです。

この土地の名前にちなんで、初期の小石原焼は中野焼きと呼ばれていました。小石原の土が磁器生産には合わなかったのか、中野焼きは一時期途絶え掛けます。しかし、当時作られていた茶陶、高取焼の制作方法から学びを得て、小石原焼きは発展と進化を遂げていきました。

その後はブリュッセルの万国博覧会で高い評価を得るなどし、世界へも輸出されるようになりました。1975年には陶磁器として日本で初めての伝統工芸品となり、いまも人々の日常に溶け込んでいます。

種類

飛び鉋

赤土の上に白の化粧土をかけた後、器に鉋の刃先をあて削っていき、模様を描く。

刷毛目

化粧土をかけた後、ろくろを回転させながら刷毛をあてて模様をつける。

櫛目

化粧土をかけた後、櫛のような道具で波状などの模様をつける。

流し掛け

ろくろを回転させつつ、器の表面に釉薬を等間隔で流していき模様を付ける。

打ち掛け

柄杓などで釉薬を器の表面に少しずつかける。

指描き

化粧土をかけた後、乾かないうちにろくろを回転させながら指で模様を描く。

特長

小石原焼の特徴は、規則正しい間隔の美しい幾何学的な模様や、土の質感を感じさせる素朴な風合いなどがあげられます。多岐にわたる模様の種類、その模様を付ける方法もそれぞれ異なり、個性あふれる伝統工芸品と言えます。

自然な色味や主張の激しすぎないデザインは食卓によく馴染み、落ち着いた雰囲気を演出します。小石原焼は、1926年に思想家 柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司などによって提唱された「民藝運動」という日常のくらしの中にある美しさに焦点をあてようとする運動により注目され、高い評価を受けました。海外の陶芸家であるバナード・リーチは小石原焼を「用の美の極致」と呼び評価していました。

用の美とは、日用品として人々の暮らしのなかで使用されることでこそ美しさを発揮するといった考えのことです。「用の美の極致」といわれるほど人々の生活の中に違和感なく溶け込み、伝統の技を持って作り上げられている小石原焼は、今なお多くの人々から愛され続けています。

作り方

小石原焼きの作り方について、小石原焼伝統産業会館ウェブサイトから抜粋してご紹介致します。詳しく知りたい方は小石原焼伝統産業会館公式サイトをご覧ください。

土作り

原料になる土を乾燥させ、陶土粉砕機で細かくなるまで砕いていく。これを水と混ぜ、砂は沈み陶土は水に溶けて浮いてくるという性質を利用し、陶土が溶けている水を陶土絞り機にかけ、陶土を取り出します。取り出した陶器を土練機に入れ、圧縮して空気を抜きます。

形作り

陶土をよくこねて、土の中の空気を抜きつつ形を作っていきます。

装飾技法

化粧土と呼ばれる鉄分の少ない白い陶土を塗り、はけや櫛、指などを利用し模様を描いていきます。

焼き上げ

窯に入れて焼き上げます。温度は1000度以上、焼きあがるまで一日以上はかかります。

窯出し

焼きあがって温度が下がったら、窯から取り出します。このとき、乾燥や熱によって窯に入れる前の大きさより二割ほど小さくなっています。

出典:小石原焼伝統産業会館

いかがでしたか?

福岡県朝倉郡東峰村でつくられる伝統の焼き物、小石原焼についてまとめました。規則正しく並ぶ幾何学模様は、熟練の職人の技術でなければ描くことのできないものです。少しでも小石原焼に興味をお持ちになった方は、ぜひ購入してみることをお勧めします。

江戸べっ甲

江戸べっ甲は主に東京都で生産されている伝統工芸品です。南国の海を泳ぐタイマイという名前のウミガメの甲羅を加工しつくられています。2015年には経済産業省指定伝統的工芸品に指定されている江戸べっ甲は、透明な飴色と黒褐色の斑点の模様が特徴的で、古くからくしやかんざしに加工され人々の間で愛用されてきました。

天然の素材を使用しているためひとつとして同じ製品はなく、希少性の高いものと言えます。今回はそんな江戸べっ甲について詳しくご紹介していきます。

由来・歴史

江戸べっ甲の歴史は、江戸幕府が開かれた頃に始まったと言われており、当時は甲羅に単純な細工を施していました。元禄時代に入ると、張り合わせという技術が伝えられたことにより、より繊細で細かい細工を施すことが可能になりました。

簪や髪飾り、櫛など和服と相性の良い服飾品や、三味線の撥など楽器の一部としても使用されています。現在タイマイは絶滅危惧種に指定されているため輸入できる数に制限がかかっており、天然のべっ甲の入手が難しいのが現状です。国内で養殖を行おうという動きもあり、期待されています。

特長

江戸べっ甲の主な特徴は、透き通った飴色の美しさと、斑と呼ばれる黒色の斑点があわさった独特の模様です。タイマイの甲羅は一体につき13枚ありますが、透明な部分は特に希少な部分とされています。一枚一枚は薄めである甲羅を重ね合わせたのち、タイマイの甲羅が持つ熱を与えると変形させ易い特徴を利用し形を整えます。

その後、ヤスリで磨き上げることで製品を完成させます。天然の素材ならではの味わい深い光沢を放つ江戸べっ甲は、つやつやとした触り心地の良さも楽しむことができ、使用すれば使用するほど風合いが増します。日本では昔から鶴や亀は長寿の象徴としてめでたいものとされてきたこともあり、江戸べっ甲は人々から愛されてきました。

作り方

江戸硝子の作り方について、東京都産業労働局のサイトから抜粋してご紹介致します。詳しく知りたい方は東京都産業労働局公式サイトをご覧ください。

削り

がんぎ、小刀、やすり等を用いて手作業にて表面を整える。

張り合せ

つぎ板、金板、金ばし、圧締器(あっていき)等を用いて、熱を加えながら接着する。

型作り

糸ノコ、小刀、やすり、トクサ等により行う。

出典:東京都産業労働局

いかがでしたか?

東京の伝統工芸品、江戸べっ甲についての特集でした。縁起が良いと言われている亀の甲羅を素材として使用し、完成させられる美しい艶と光沢を放つ江戸べっ甲の製品は熟練の技をもちいて制作されていることが感じられます。昔から貴族や庶民の間で愛されてきた江戸べっ甲の簪や髪結い櫛をはじめ、現代のニーズにあわせメガネのフレームや万年筆などにも加工されています。

天然素材ということもあり、時間がたつと艶や光沢が落ちていきますが、手入れをすればまた輝きを取り戻します。伝統工芸品の手入れをしながら長い間愛用していくというのも、趣があって良いですね。興味がある方はぜひご購入されてみてはいかがでしょうか。

笠間焼

笠間焼とは、茨城県の笠間市で生産されている陶器です。関東では最も古いといわれている歴史のある笠間焼は、様々な形やスタイルの陶器が個性豊かな作り手により表現されている自由度の高いや焼き物です。

今回はそんな魅力的な陶器、笠間焼について解説していきます。

由来・歴史

笠間焼の産業は江戸時代からとされていますが、笠間の地域では縄文時代や弥生時代の土器が発見され、古代から焼き物が使用されてきたことが確認できます。笠間の地域で採れる粘土は、マグマが冷え固まって花崗岩となり、花崗岩が風化してできたものです。

江戸時代の安永年間に、久野半右衛門という人物が開窯した箱田焼と山口勘兵衛がはじめた宍戸焼が笠間焼の元になっています。その後も知名度が上がったり、大量生産が始まったりしたことによって、笠間は焼き物の産地としてますます発展していきます。

日用品として人気が高く、たくさんの商品が販売されていましたが、時代とともに生活様式が変わり、プラスチックの食器などが普及し始めると陶器の需要が減ってしまいました。しかし、民藝ブームがおこり若手の作家が増え、新しいスタイルやデザインの陶器が生産され始め、笠間焼再び発展し、進化していきました。

特長

笠間焼の特徴として、丈夫であり比較的割れにくいこと、自由なスタイルの幅広い作品が多いことなどがあげられます。関東で最も古い焼き物といわれており、人間国宝である松井康成など著名な作家をはじめ、笠間焼を生産する陶芸家の数は多いです。

また、食器などの日用品をはじめ、花器などのインテリア、オブジェなどアート作品など様々な商品が生産され販売されています。伝統や格式にとらわれすぎず、時代の流行の波に乗るように様々なスタイルの波にのって生産される笠間焼は、現在も多くの人の生活の中に溶け込んでいます。

作り方

笠間焼の作り方について、日本伝統文化振興機構(JTCO)ウェブサイトから抜粋してご紹介致します。詳しく知りたい方は日本伝統文化振興機構(JTCO)公式サイトをご覧ください。

【1】 原土採掘

山や畑の地下にうずもれていた粘土を掘り出します。

【2】 圷土工程(粘土づくり)

掘りだされた粘土をしばらくの間野外で野ざらしにして水を混ぜ、ねり状にして粘土をつくります。
a.水簸による粘土づくり
b.トロンミル及びフィルタープレス機械による粘土づくり

【3】 菊もみ工程

菊の花びらのようにねり、空気をぬいて、水分の均一化をはかります。

【4】 成形工程(形づくり)(形をつくる)

成形には、ろくろ成形、型起し成形、手ひねり成形があり、これらの方法により、いろいろな形をつくります。

【5】 乾燥工程

片乾きによる、ひずみや亀裂を生じないように平均的に乾燥させます。
a.日陰乾燥
b.天日乾燥
c.熱風乾燥(人工)

【6】 素焼工程

よく乾燥した製品を窯に入れて700~800℃で約10~15時間、釉薬がかかりやすく、取扱がしやすいように素焼します。

【7】 下絵付け工程

素焼した製品に、筆等に絵具、釉薬をつけ下絵を描きます。
素焼の前に化粧土を泥状にして表面に施したり、素地の面を板金等で削り取り模様を描いたり、模様を張り付けたりする製法もあります。
また本焼成後絵付けして800℃で焼きつける加飾と言う製法もあります。

【8】 施釉工程(釉薬をかけます)

素焼された製品に、釉薬(黒釉、白マット釉、灰釉、乳白釉等)をかけます。
浸し掛け、流し掛け等があり殆ど手作業で行なわれます。

【9】 本焼成工程

施釉された製品を入れて、1,250℃~1,300℃で約20時間本焼成します。

【10】 仕上、検査工程

窯出しされた製品をひとつづつ底を滑らかに仕上げ、割れ等がないか調べます。

出典:日本伝統文化振興機構(JTCO)

いかがでしたか?

丈夫であり比較的割れにくいこと、自由なスタイルの幅広い作品が多い笠間焼についての特集でした。少しでも興味を持たれた方がいれば、ぜひ購入してみることをお勧めします。

東京染小紋

江戸時代に広く普及していたといわれている無形文化財である東京染小紋は、主に新宿区、世田谷区、練馬区で生産されている型染めのことです。細かく美しい模様が特徴的で、江戸時代には武士など高貴な身分の人々も東京染小紋を愛用していました。

経済産業大臣指定の伝統的工芸品にもなっている東京染小紋について特集していきます。

由来・歴史

東京染小紋の歴史はとても古く、時代は室町まで遡り最初は武士の裃への模様付けを行ったことがはじまりだと伝えられています。江戸時代になると武士の数が増えたことによって、必然的に東京染小紋の需要も拡大していきました。

また、武士にとって小紋の模様は自分の家柄を表現するために重要な役割を果たし、武士や大名が身に着けていましたが、次第に庶民の間でも広まっていき、東京染小紋が彩られた着物などが数多く生産されるようになりました。明治になると、欧米化の影響などにより男性の小紋使用率は減りましたが、女性の着物としては依然人気が強く、需要が伸び続けました。

種類

江戸小紋

伝統の模様の柄をふんだんにあしらい、単一の色で染めたもの

東京しゃれ小紋

型紙を何種類か使用した自由度の高いデザインのもの

特長

東京染小紋の特徴として、バリエーションが豊富な柄の種類の多さや、職人の技術の高さがうかがえる非常に細かい模様などがあげられます。400年以上も続く長い歴史を持つ東京染小紋は、緻密で繊細な型紙を彫ることのできる彫師の技術によって生産されており、派手さをおさえつつも落ち着きのある高級感を放っている伝統工芸品です。

江戸小紋の柄は小さければ小さいほど粋なものである、とされています。これは、江戸時代に幕府から贅沢なものがたびたび取り締まられることがあり、遠目からみれば無地に見えるほど細かい着物の需要が高まったことが影響しています。身分が高い武士ほど職人に細かい柄の着物をつくらせることができたため、最終的に江戸小紋の技術はより発展していくこととなりました。

作り方

東京染小紋の作り方について、日本伝統文化振興機構(JTCO)ウェブサイトから抜粋してご紹介致します。詳しく知りたい方は日本伝統文化振興機構(JTCO)公式サイトをご覧ください。

【1】 型紙の彫刻

良質の手漉き和紙を2~3枚、柿の渋で張り合わせた「地紙」に錐(錐彫り)、小刀(突き彫り・引き彫り)、道具(道具彫り)、などを使って模様を彫ります。

【2】 色糊の調整

色糊は染め上がりの出来栄えを左右する大事なものです。
地色と目色があり、はじめに糯粉と米ヌカを混ぜ合わせて蒸し、よく練った元糊に染料を入れ、試験染めをしながら慎重に作ります。

【3】 型付け

長板に白生地を張り、その上に型紙を乗せ、ヘラで糊を置いていきます。
型紙の彫り抜かれた部分だけ模様が生地に型付けされます。染の最も重要な部分です。

【4】 板干し

型付けができたら、貼り板のまま糊を乾かします。
多色の柄は繰り返し型付けをします。
こうするとで、より鮮明な柄に仕上げることができます。

【5】 地色染め(しごき)

糊が乾いたところで、生地を板からはがし、染料の入っている地色糊を大きなヘラで、全体に平均に塗り付け地色染めをします。これを「しごき」といいます。

【6】 蒸し

地色が乾かないうちに蒸箱に入れ90~100℃で15~30分位蒸します。
糊の中に入っている染料を生地に定着させるためで、蒸し加減は熟練を要します。

【7】 水洗い

蒸し上がった生地は、糊や余分な染料を落とすため念入りに水洗いします。

【8】 乾燥仕上げ

水洗いされた生地を乾燥させ、湯のしで幅を整え、丁寧に検品をして仕上げ、染め上がりとなります。

出典:日本伝統文化振興機構(JTCO)

いかがでしたか?

江戸時代に広く普及していたといわれている東京染小紋についての特集でした。400年以上も続く長い歴史を持つ東京染小紋は、現在も着物や帯などが生産され、多くの人の間で愛されています。少しでも興味を持たれた方がいれば、ぜひ購入してみることをお勧めします。

会津塗

会津塗は、福島県の西部に位置する会津地方を中心につくられている伝統の漆器です。会津地方は大きな山脈など豊かな自然に恵まれており、漆の木の栽培に非常に適した地域です。会津塗は縁起が良いものをモチーフとして絵付けされ、黒や金や赤などの色の鮮やかさが印象的な伝統工芸品です。

熟練の職人によってひとつひとつ手作業で丁寧に仕上げられており、花瓶や茶器など様々な会津塗の製品が販売されています。1975年には経済産業大臣によって伝統工芸品として指定され、2019年には会津若松市により無形文化財に指定されました。今回は古くから伝統の技術を受け継いでつくられている会津塗について特集していきます。

由来・歴史

会津塗の歴史は室町時代に始まったと言われています。この頃に会津塗に欠かせない漆を採取するため、漆の木の植林が始まりました。安土桃山時代に入ると、会津塗はますます発展していきます。会津の領主の保護下におかれ、近江の国から技術者を引き連れ会津の職人は高度な技術を身に付けました。

こうした施策によって、会津塗は一大産業として確立していきます。江戸時代になると、貿易により会津塗は世界からも評価を受けるようになりました。会津塗は戊辰戦争を機に一時衰退しますが、機械化の成功や漆の技術が再評価されたことにより立て直します。会津塗は、職人達のたゆまぬ努力によって今日まで受け継がれています。

種類

会津塗の加飾や塗の方法には、様々な種類があります。

花塗

漆と乾性油を混ぜ合わせた有油漆と呼ばれる漆が使用されており、油の影響でより光沢が出やすくなると言われています。塗りは下塗り、中塗り、上塗りの三層から成っており、刷毛のあとを残さずに塗る高い技術が求められます。

金虫喰

黒漆を塗った表面に大麦や籾殻を振りかけ、乾燥をさせると漆が籾殻を吸収し独特のでこぼことした表面が出来上がります。その上に金箔や銀箔をかけ、さらに漆を塗り研ぎだして完成させます。

会津絵

松竹梅や破魔矢など縁起が良いと考えられているものが描かれており、鮮やかな模様が特徴です。

沈金

彫を入れ、できた溝に漆や金箔などを刷り込む技法により完成されます。

蒔絵

表面に塗りつけた漆がのりの役割を果たし、金粉や色粉をまくことによって模様をつける技法。装飾に貝が使用されることもあり、華やかな仕上がりが特徴です。

特長

会津塗には400年以上もの歴史があり、とても貴重な伝統工芸品であると言えます。会津の地で採れる質の良い漆の木を原料に作られる会津塗は大変美しい仕上がりのものが多く、家庭にひとつは持っておきたくなる魅力があります。多彩な技法や加飾方法があり、とても色鮮やかで飽きがきません。

また、見た目の美しさだけではなく、熱湯や水に強く、酸やアルカリにも強いといった面もあり、大変実用的であると言えます。お値段に関しても、高級なものから日常使いしやすい安価な商品もあり、手を伸ばしやすい商品も多くあります。最近では電子レンジに対応している商品などもつくられるようになってきており、時代のニーズにも合わせてきています。

作り方

会津塗の作り方について、東京経済産業局のサイトから抜粋してご紹介致します。詳しく知りたい方は東京経済産業局の公式サイトをご覧ください。

下地造り

  • 渋下地

柿渋に炭粉、松煙又は油煙を混ぜ合わせたものを塗付しては研ぎをすることを繰り返した後、柿渋を塗付する。

  • さび下地

生漆に砥の粉を混ぜ合わせたものを塗付する。

  • 上塗

「花塗」、「きじろ塗」または「金虫くい塗」

加飾

  • 消粉蒔絵、平極蒔絵、丸粉蒔絵、消金地及び朱磨

金粉、銀粉、朱の粉その他の粉を蒔いた後、精製生漆を繰り返し「すり漆」する。

  • 会津絵

檜垣を描いた後、ひし形の箔押しをする。

  • 色粉蒔絵

色粉を蒔いた後、ろうを付けた和紙を用いてみがく。

  • 沈金

「のみ」を用いて彫り、精製漆をすり込んだ後、箔押し又は粉蒔きをする。

  • 漆絵

顔料などを粉末にした色粉を漆に練り合わせた彩漆で絵や紋様を描く。

出典:東京経済産業局

いかがでしたか?

400年以上もの歴史を持つ会津塗についての特集でした。伝統工芸品ならではの受け継がれた技術を用い、熟練の職人によってひとつひとつ泥濘につくられています。会津塗は多種多様な塗り方によって華やかに仕上げられた魅力のある商品が多く、興味のある方は是非ご購入されることをおすすめします。

香川漆器

香川漆器は、香川県高松市を中心に生産される漆器です。奥ゆかしい光沢となめらか触り心地、華やかな模様など、とても魅力の詰まった伝統工芸品です。香川漆器の塗り方には5つの手法があり、それぞれ蒟醤(きんま)、存清(ぞんせい)、彫漆(ちょうしつ)、象谷塗(ぞうこくぬり)、後藤塗(ごとうぬり)があげられ、これらは国の伝統工芸品として指定されています。塗り方が5通りもあるなんて、どれを選べばいいのか迷ってしまいますね。今回はそんな香川漆器の魅力について特集していきます。

由来・歴史

香川漆器の歴史は江戸時代後期から始まったと言われています。高松藩主である松平家からの手厚い保護もあり、発展していきました。江戸時代後期に入ると、香川漆器の生みの親とされる玉楮象谷(たまかじぞうこく)という人物が、中国やタイの漆器を研究し、独自の技とあわせ新しい製法を編み出しました。それぞれ彫漆(ちょうしつ)、象谷塗(ぞうこくぬり)、蒟醤(きんま)、存清(ぞんせい)、後藤塗(ごとうぬり)とよばれ、現在もその手法は受け継がれています。

種類

後藤塗(ごとうぬり)

後藤塗という名は、発案者である後藤太平という人物から採られています。後藤太平は高松藩士の家に生まれ、父の影響で絵画、茶、骨董といった中国文化への関心が強く、自ら朱の漆を使って作品を作っており、これが後藤塗のはじまりとなりました。優雅な朱の色が大変優雅で美しいのが印象的です。

存清(ぞんせい)

存清の技法は東南アジアから中国を経由して日本に伝わったと言われています。漆が塗られた面に赤や緑、黄色の鮮やかな漆で紋様が描かれている美しい工芸品です。存清漆器がはじめて日本に入ってきたのは室町中期頃と言われています。当時は海外の珍しい品として、一部の貴族の間で人気がありました。江戸時代後期、玉楮象谷という人物が存清漆器を研究し、日本の技術を加え、日本風の存清塗りを編み出しました。

蒟醤(きんま)

香川漆器の代表的な塗り。蒟醤とはタイの植物の実のことであり、紋様を刀で彫ってそのくぼみに色漆を埋め込み、平らに磨き上げることで完成させます。タイ、ミャンマーから伝わり、玉楮象谷が技法を研究し日本の技術と合わせ、それを藤川黒斎が受け継ぎ香川の蒟醤漆器を確立させました。

象谷塗(ぞうこくぬり)

象谷塗の名は、発案者である玉楮象谷にちなんで名づけられました。下地に漆を繰り返し塗るという独特の技法をもって制作されます。象谷塗独特のも模様や陰影は、長年使うことによってさらし渋みが増すとても特徴的な漆器です。

彫漆(ちょうしつ)

彫漆は、分厚く塗り重ねた漆を彫刻することによって作られる漆器です。様々な色の漆を何十回も、多いもので百回以上も塗り重ねることもあります。塗り重ねたことによる立体感が印象的な漆器です。

特長

香川漆器は、使用を重ねれば重ねるほど風合いが出てきて渋みが増すという特徴があり、香川漆器独特の色調がさらに奥深いものへと変化していきます。五種類の異なった制作技法が存在し、国の伝統工芸品として指定されています。現在でも食器やお盆、お椀、花瓶など様々な商品が制作され、販売されています。漆器はその見た目の美しさの他にも、熱を伝えにくく、傷みにくいといった利点があり、汁物を入れるための器などに適しています。

いかがでしたか?

五種類もの技法を持つ香川漆器についての特集でした。香川漆器はその美しい見た目に加え、熱が伝わりにくいといった性質があります。あつあつのスープや汁物を頂くのに大変適した工芸品です。ぜひ日常や食卓にとりいれてみてはいかがでしょうか。

燕鎚起銅器

一枚の平らな銅を鎚で打ち延ばすことで立体的にしていくことで作られる銅器、燕鎚起銅器は1981年に通商産業大臣により指定された伝統工芸品です。生産地は新潟県燕市であり、国内唯一の燕鎚起銅器の生産地です。表面のでこぼことしつつもなめらかで独特の触り心地と、使えば使うほどより趣のあるものへと変化していきます。

食器や急須、水筒など日用品をはじめ、さまざまな燕鎚起銅器の製品が生産されています。今回は、そんな魅力のある燕鎚起銅器について詳しく特集していきます。

由来・歴史

燕鎚起銅器の歴史は、江戸時代から始まったとされています。燕鎚起銅器の生産地である新潟県燕市は、日本の中でも指折りの穀倉地帯である越後平野の中心あたりに位置していました。平野の信濃川は時折氾濫を起こしていたため、農民たちの生活は安定せず、苦しいものでした。江

戸時代初期頃、農民たちは貧困から抜け出すために和釘づくりをはじめ、生活を安定させました。江戸の震災や火事の影響で釘の需要は非常に高まり、流通している釘は燕市で作られた釘がほとんどを占めていました。この勢いに乗るように、銅細工の生産がはじまり、良質な銅が採れる間瀬銅山の存在もあわさりますます発展していきます。

江戸中期に仙台の藤七という渡り職人が訪れ、燕市の職人に鎚起銅器の技術を伝えました。技術を受け継いだ職人は鎚起銅器を生産し腕を磨いていき、現在の燕鎚起銅器の礎を築いていったのです。1873年のウィーン万国博覧会で燕鎚起銅器が出品され、海外からも高く評価されました。戦争の影響により一時的に燕鎚起銅器は衰退しますが、戦後1981年通商産業大臣による伝統工芸品の指定を受けました。

特長

燕鎚起銅器は、ひとつひとつ丁寧に熟練した技を持つ職人によって作られています。一枚の平たい銅を鎚で打ち広げてつくるため繋ぎ目がなく、絶妙な加減のでこぼことした表面やなめらかな手触り、独特な光沢が特徴です。

長年使用すると、より一層趣深い色合いへと変化していきます。銅は熱伝導率が高く優れた耐久性があり、殺菌作用もある優れた素材です。鍋やフライパンなど調理用具をはじめ、最近ではコーヒーメーカーやタンブラーなど時代のニーズに合った製品もつくられています。以前にはなかったデザインの製品は高い評価を受け、海外へも輸出されており、人気があります。

作り方

燕鎚起銅器の作り方について、新潟県教育委員会のサイトから抜粋してご紹介致します。詳しく知りたい方は新潟県教育委員会の公式サイトをご覧ください。

地金取り

製品の大きさを考え、銅板を目的の寸法に切り取ります。

打ち落し

へこんだ木台に材料を置き、回しながら打ち込みます。

打ち絞り

完成した形を想像しながら、側面を打ち縮めます。側面が絞られるとその分高く立体的になります。

焼鈍し

650度位に熱して、銅を柔らかくします。

荒均し

形が出来上がったら、もう一度全体を打ち、むらやひずみをとります。

表面合金

製品の模様によって表面に錫を焼き付けます。

均し作業

たたいて銅板の鎚目を美しくならべます。

彫金

タガネを使い細かな模様を描き、彫り、打ち出します。

着色みがき

赤色系も黒色系も1個1個ていねいにみがきあげます。

つるの取り付け

つるを取り付けます。

出典:新潟県教育委員会

いかがでしたか?

新潟県燕市の伝統工芸品、燕鎚起銅器についての特集でした。燕鎚起銅器は使用を重ねるごとに趣深く変化していくため愛着が出てくる魅力のある工芸品です。使用されている銅は熱伝導率が高く、飲み物の器として最適で、加えて高い殺菌作用や耐久性に優れています。今の時代に合わせた製品も数多く販売されています。ご興味のある方はご購入されることをおすすめします。

大阪浪華錫器

大阪浪華錫器とは、大阪府大阪市製造されている錫製の器のことです。1983年に当時の遺産大臣から伝統工芸品に指定されました。錫は非常にさびにくい特徴を持つため、現在でも皿やカップなどの食器類は人気が高く、タンブラーなどモダンな製品も販売されています。

第二次世界大戦前には300人以上の職人がいたと言われていますが、大戦がはじまると職人が戦争に行ったり材料が手に入らなくなるなどの理由で、大阪浪華錫器の産業は一時衰退してしまいます。しかし、このような困難を乗り越え今ある大阪浪華錫器に至ります。

由来・歴史

7世紀初め頃に遣隋使が日本に錫器を持ち込み広めたと言われており、奈良正倉院に錫器でつくられた壺や亀が保管されています。この当時、錫器は金や銀と並ぶほど貴重品で、大切に扱われていました。日本における錫器の生産は京都の丹波ではじめておこなわれました。江戸時代中期になると心斎橋、天神橋、天王寺などで生産が行われ、発展していきました。

大阪は錫器製造業者が多く集まる場所となり、大阪浪華錫器はその地位を確かなものにしました。昭和所初期にはその人気ぶりはピークを迎え、大阪では300人を超える職人が在籍していました。

その後、第二次世界大戦をきっかけに、大阪浪華錫器は衰退していくことになります。徴兵により職人がいなくなり、材料も不足したため生産は困難を極めましたが、1983年に当時の経済産業大臣により大阪浪華錫器は再評価され、伝統工芸品に指定されました。

特長

大阪浪華錫器に使用される錫器は、錆びにくいという特徴があります。変色が起こりづらいため、美しい色や光沢を長く楽しむことができます。使い込めば使い込むほど味が出て、柔らかく独特な雰囲気への変化を楽しむことができます。金属ですので長年使っていれば光沢が徐々に曇っていきますが、アンティークのような雰囲気が出てまた違った面を楽しむことができます。

光沢を取り戻したければ、メラミンスポンジなどでこすると輝きが戻ります。また、大阪浪華錫器には陶器に比べて熱の伝わりやすさが違うため、比較的温めたり冷やしたりしやすいという特徴を持っています。飲み口を美しく磨き上げなめらかに仕上げているため、独特の口当たりを楽しめます。

作り方

大阪浪華錫器の作り方について、大阪錫器株式会社と大阪府のサイトから抜粋してご紹介致します。詳しく知りたい方は大阪錫器株式会社大阪府の公式サイトをご覧ください。

鋳造

錫を溶かし、液体になった錫(湯と呼びます)を型に流し込んで必要な形に作り変えます。

ろくろ削り

鋳造で作ったものを、ろくろを使って形を整えます。

焼き合わせ

熱したこてで上下に分けて作った部品を、共付け溶接で接合させます。

ロウ付け

ロウ材という錫よりも低い温度で溶ける金属を接着剤にして、そそぎ口と持ち手の基部を取り付けます。

絵付け

塗り残しや薄い部分がないように注意しながら絵の具で模様を描いていきます。

くさらし

酸に浸けることで錫の表面を侵食させて凹凸をつくります。絵付で描いた場所は侵食されないので一段もり上がり、豊かな風味が生まれます。

漆塗り

くさらしでできた凹みに漆を塗りこんでいきます。

仕上げ

余分な漆をふき取り全体のつやを出します。

出典:大阪錫器株式会社、大阪府

いかがでしたか?

大阪府大阪市の伝統工芸品、大阪浪華錫器についての特集でした。食器や入れ物などたくさんの製品が販売されていますが、特に飲み物の器は飲み口がなめらかにみがきあげられ独特の飲み口を楽しむことができるためおすすめです。熱も伝わりやすく、また逆に冷やしやすくもあるため、お酒などを楽しむのにもってこいの器です。ぜひ、おひとつ購入されてみてはいかがでしょうか?

東京銀器

東京銀器は、東京で作られている伝統的な金属工芸品です。銀を材料にさまざまな商品が作り出されており、1979年には国の伝統工芸品として指定されています。東京銀器の製造は職人の手作業で行われることが多く、受け継がれてきた高度な技術も用い一品一品丁寧に仕上げられます。

世界でも有数の銀産出国であった日本で培われた東京銀器の技術は現在まで受け継がれ、多くの人々を魅了しています。今回はそんな東京銀器について特集していきます。

由来・歴史

東京銀器の歴史大変長く、916年つくられた規則集「延喜式(えんぎしき)」に銀器の記録が残っています。その後、室町時代になると西洋からの技術や日本国内で銀山が発見されたことなどの影響により、銀器の生産はますます本格的なものへと発展していきました。

江戸時代には現在の銀座にあたる銀座役所で銀貨がつくられていたこと、元禄文化の記録に銀河装飾品として好まれていたと残っていることから、江戸の市民の間でも銀製品は日常的に使われていたことがわかります。こういった時代背景があり、東京銀器は今日まで栄えてきました。

種類

「鍛金(たんきん)」
1枚の丸い銀の地金を金槌(かなづち)やアテ道具で壺(つぼ)のようにたたいて丸めて成形する

「彫金(彫刻)」
金槌と鏨(たがね)で表面に模様を打ち出したり、素材の表面を鏨で彫ったりして装飾する

「切嵌(きりばめ)」
絵柄の部分を切り抜き、別の金属を嵌め込んで装飾する

出典:台東区公式工芸品サイト

特長

東京銀器は、そのとても美しい光沢と金属特有の手触りが特徴です。銀は金属の中でも特に柔らかい特性を持ち、加工がしやすいと言われていますが、柔らかい分耐久性は弱いです。銀器に使用する銀にわずかに硬い金属(割り銀)を混ぜ合わせることによって、この欠点を補います。貴族の装飾品や仏具、市民の髪飾りや煙管など様々な銀器が生み出されることになりました。

日本製の銀器の良さは、1867年にパリで開催された万国博覧会にて界中に広まることとなりました。中国やインドでは銀が手に入りずらかったこと、海外では銀食器の需要が高かったなどの理由もあり、多くの製品が海外へと輸出されていきました。現在でも、東京の台東区などで様々な用途に合わせた東京銀器が生産されています。

作り方

東京銀器の作り方について、東京都産業労働局のサイトから抜粋してご紹介致します。詳しく知りたい方は東京都産業労働局公式サイトをご覧ください。

成形

①鍛金にあっては、地金を金鎚及び金具を用いて手作業で行い、②ヘラ絞りにあっては、地金を木型 に当て、木型を回転させてヘラ棒を用いて手作業にて絞り込む。

部品接合

銀鑞(ぎんろう)付け、カシメ又は鋲止めによる。

加飾

①模様打ちにあっては、金鎚又は鏨(たがね)を用い、②切嵌の図柄の切落し・絞金造りにあっては、糸鋸・切鏨(きりたがね)を用い手作業による。

色仕上げ

煮込み法又は金古美(きんふるび)液若しくはタンバン古美液を用いる。
ヘラ絞りで成形したものは、加飾をする。

出典:東京都産業労働局

いかがでしたか?

日本の伝統工芸品である東京銀器についての特集でした。東京銀器は光沢や手触りなど、たくさんの魅力が詰まり、高度な伝統技術で仕上げられています。実際手に取ってみなければ伝わらないこともありますので、興味のある方はぜひご購入されることをおすすめします。

南部鉄器

岩手県盛岡市と奥州市水沢地域で作られている伝統工芸品、南部鉄器。鉄を溶かし型に入れて固めてつくられる南部鉄器は、錆びにくく大切にすれば長く使用することのできる品質の良い鉄器です。海外からも人気が高く、欧米やアジアなどへ輸出されています。

伝統的な黒の南部鉄器だけではなく、カラフルでポップなデザインのものや、従来の鉄瓶や急須以外にもコーヒーポットやIH対応な製品など現代のニーズにあわせた南部鉄器がつくられ、販売されています。今回の記事では、今なお新たな発展を続けている南部鉄器について特集していきます。

由来・歴史

南部鉄器は17世紀半ばの江戸時代初期に初めてつくられました。当時、南部藩主が京都から職人を招き、湯釜をつくらせたことが始まりと言われています。南部藩の人々は産業や文化に対しとても熱心なこともあり、南部鉄器は更なる発展を遂げていき、現在の形となりました。

南部鉄器の中でも代表的な南部鉄瓶は、18世紀頃に南部藩に仕えていた小泉仁左衛門清隆が作ったと言われています。南部鉄瓶はこれまで使用されていた茶釜に代わって小さくて手軽にお茶を入れることのできる画期的な発明でした。明治時代に入ると、全国新聞に載ったり大規模な博覧会に出されたりするなどして知名度が上がり、最盛期を迎えます。

第二次世界大戦頃は鉄が不足し人々の生活が苦しくなったため需要も減り南部鉄器の歴史は一時期停滞しますが、1959年に盛岡市と奥州市が共同で連合会を結成し、現在の南部鉄器のブランドとしての価値を確立させました。

種類

南部鉄器には代表的な南部鉄瓶をはじめ、様々な種類があります。南部鉄瓶といったら、やっぱりぽつぽつとした小さな丸が連なったアラレ紋様です。このデザインが一番有名で、定番の製品となっています。この模様は鉄瓶の面積を増やすことでより保湿効果を出すために考案されました。

他にも、竜や亀といった縁起のいい生き物が描かれた動物紋様、桜や菊などの紋様が描かれたデザインのものもあります。形も丸形、平形、南部型、八角型など多岐にわたります。伝統的なタイプのもの以外にも南部鉄器製の商品はさまざまなものがあります。

例えば、フライパンや鍋などのモダンな調理器具や、お皿やカップなどの食器類、風鈴や鍋敷き、アクセサリーなどの小物、伝統の黒色以外にもカラフルな色の塗料でぬられた可愛らしい南部鉄器など、現代のニーズに答えたような利便性の高い商品が多く販売されています。

特長

南部鉄器はシンプルさや素朴さを追求したデザインが上品で美しく、錆びにくい特性をもち鉄臭さが少ないためまろやかなお茶が入れられることで有名です。かつて岩手の盛岡藩が南部鉄器を作っていました。盛岡藩はかつて南部藩と呼ばれていたため、南部鉄器という名前が付けられました。鉄を高温で溶かし型に流し込んで作られているため、丈夫で壊れにくく、陶器やガラスよりも格段に割れにくいため、大切に使うととても長持ちします。

南部鉄器の表面には、漆の樹液を塗られていることが多かったのですが、漆の不足によりカシューナッツの殻から採れる樹液を使い作られた塗料が代用として使用されることが増えました。この塗料は漆と化学構造が似ているため、仕上がり方も漆のそれと大変似ています。

南部鉄器で一番代表的な鉄瓶をはじめ、風鈴やなべ、フライパン、食器類など幅広い南部鉄器製品が販売されています。江戸時代から続く長い歴史を持ち、人々がお茶を楽しむために重宝されてきた歴史ある鉄器です。

作り方

南部鉄器の作り方について、南部鉄器組合のサイトから抜粋してご紹介致します。詳しく知りたい方は南部鉄器組合をご覧ください。

1. 作図と木型

作図に基づいて木型をつくります。現在の木型は鉄製です。

2. 鋳型のできるまで

木型を手で回しながら、鋳型をつくっていきます。

3. 紋様をつけ肌打ちをする

鋳型の内側に紋様を押したり、鋳型の肌に肌打ちをします。

4. 中子づくり

砂に埴汁を加えたものを、中子型に入れてつくります。

5. 型の組み立て

鋳型に手で中子をはめ込み、鋳型を組み立てます。

6. 原料の鉄の溶解と鋳込み

鉄を溶解炉(キュポラ・こしき)で溶解し、それを鋳型に注ぎ込みます。

7. 型出し

鋳型を外して、中の製品を取りだします。

8. 金気止め

サビ防止のために、木炭炉の中で製品を焼きます。

9. 研磨と着色

外面の酸化皮膜を、針金ブラシなどでこすり、くご刷毛で漆やおはぐろを塗ります。

10. つるの取り付け(鉄瓶のみ)

鉄びん本体へつるを取り付ける。「つる次第で鉄びんのでき不出来が決まる」とさえいわれます。

出典 : 南部鉄器組合

いかがでしたか?

岩手県盛岡市と奥州市水沢地域に伝わる伝統工芸品、南部鉄器についての特集でした。調理器具としての利便性のよさ、素朴でシンプルなデザイン性など、江戸時代から人々に愛され続けてきた魅力のある南部鉄器は、時代に合わせてIH対応の商品が作られたり、コーヒーポットがつくられお茶以外のものも南部鉄器で飲めるようになったりと現代でも更なる進化を続けています。国外からの人気も高まっており世界に向けても輸出されています。南部鉄器が今後どのように発展していくか、ますます目が離せません。